プロダクト企画の人間がコスト削減のツケを払う時
物理ボタンの復活は、ドライバーの操作性を重視した美談のように語られているが、本質はそこではない。製造原価の削減をソフトウェアに押し付けたツケが、ブランド価値の毀損という形で回収不能になっただけだ。製品開発やサプライチェーンに関わる人間にとって、今起きていることはコスト構造の不可逆な再設計を意味する。
ソフトウェア化という名の「原価の外部化」
自動車メーカーがインパネから物理スイッチを一掃し、巨大なタッチスクリーンへ統合していった最大の動機は、先進性の演出ではなく製造原価と設計変更コストの圧縮にある。
物理スイッチをひとつ配置するには、専用の樹脂金型を起こし、夜間照明用のLEDを仕込み、耐久試験をクリアし、車内の電子機器をつなぐ配線束であるワイヤーハーネスを這わせなければならない。画面の中のアイコンに置き換えてしまえば、金型も専用の配線も不要になり、発売直前までUI(操作画面)の配置を変更できる。
製品企画や調達の立場から見ると、これは「顧客体験の向上」を口実にして、ハードウェアの製造コストと日程リスクをソフトウェア部門へ丸投げする構造に他ならなかった。部品点数を削り、組み立て工数を減らすことで、短期的な営業利益率は確かに改善した。
なぜ今、揺り戻しが起きるのか
では、なぜ今になって各社が物理ボタンを再配置し始めているのか。現場の良心に目覚めたからではない。外的な規制と、リセールバリューの毀損という物理的限界に直面したからだ。
直接のトリガーは、欧州の新車安全評価機関(Euro NCAP)などが、主要機能に物理スイッチを持たない車両の安全評価を引き下げる方針を打ち出したことにある。安全評価の星を落とすことは、欧州市場での保険料率の上昇やフリート(法人)向け販売の停止に直結し、完成車メーカーのキャッシュフローを直撃する。
さらに深刻だったのは、高価格帯の車両において「画面タッチの強要」が明らかな安っぽさとして受け止められ始めたことだ。運転中にエアコンの温度を一段下げるためだけに、視線を走行ラインから外し、階層メニューを2回タップさせる仕様は、道具としての信頼を著しく損なう。ソフトウェアで原価を削った結果、車両本体のプレミアム価格を正当化できなくなるという、本末転倒な事態に陥ったのだ。
道具としてのリアリティを欠いた設計の末路
先日、仕事の関係でメルセデスAMGのハイパフォーマンスモデルと、レクサスの最新SUVを乗り比べる機会があった。
日常使いの領域であれば、どちらの車も出力性能や加減速のスペックに不満はない。しかし、ステアリングを握りながら手探りでドライブモードを切り替え、ブラインドタッチで空調を微調整する際の「道具としての手応え」には歴然とした差があった。指先のクリック感ひとつで、自らの操作が機械に伝わったと身体が確信できるかどうか。その瞬間の安心感こそが、高価格帯の車が売るべき「質感」の本質だ。
組織の内側でパワートレインや車両のシステムを見ていると、性能企画が顧客体験目標から部品要求を組み立てるのではなく、部品の都合やコスト削減の帳尻合わせとしてUIが決められていく場面を頻繁に目にする。しかし、人間という生体のインターフェースは、スマートフォンの画面がどれだけ進化しても、触覚のフィードバックを要求し続ける。その身体的な制約を無視したデジタル化は、ただの手抜きとしていずれ市場からしっぺ返しを食らう。
見立てが崩れる条件
この「物理ボタン回帰」という仮説が間違いだと証明される条件は、ふたつある。
ひとつは、車載音声認識AIの応答速度と認識精度が極限まで高まり、ドライバーが手元のスイッチを探すよりも早く、かつ100%の確実性で意図を汲み取れるようになった場合だ。もうひとつは、完全自動運転(レベル4以上)が普及し、人間が運転席で「即時かつ不可逆な物理操作」を強いられる局面そのものが消滅した場合である。
このふたつが日常の風景にならない限り、主要な操作系における物理接点の価値がゼロに戻ることはない。
では個人はどうするか
この構造変化を踏まえ、個人が取るべきアクションは明確だ。
自動車や電機産業を追う個人投資家であれば、「車載ディスプレイの大型化」や「コックピット半導体の統合」を成長ストーリーに掲げる銘柄の評価倍率を一度見直す必要がある。むしろ注目すべきは、触覚フィードバック(ハプティクス技術)を組み込んだ次世代スイッチや、高い耐久性を持つ機構部品を手がけるTier1サプライヤーの受注残高の推移だ。画面に奪われていたハードウェアの付加価値が、再び物理コンポーネントへと還流し始めている。
また、製造業やIT業界でプロダクト企画に携わるビジネスパーソンであれば、自社の製品において「デジタル化による原価低減」が、ユーザーの身体的な認知負荷を外部化していないか棚卸しすることだ。画面に押し込んで浮かせた数パーセントの開発コストは、数年後、顧客のブランド離脱という遥かに重いツケとなって跳ね返ってくる。
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参考: トヨタ、レクサスに隠れた物理ボタンタッチ人気から一転再評価 | 日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC1126R0R10C26A9000000/